スッタニパータ 瀬戸内寂聴
東洋経済を読んでいて面白かった記事を2つ並べる。
まずひとつ。
ここでは飢餓感という言葉がキーワードとなっている。
飽食の時代、バブルを経験した我々は、時に身の丈以上の欲求に誘(いざな)われて無益な時間を過ごす。そしていつのまにか空洞だらけの自分、ぜい肉だらけの自分(の腹)を見て落ち込む。それも少しの時間で慣れてくる。無気力感。老いることの無気力。しかし物は脂肪分はどんどん増えてゆく。
つまりそういうことだ。
学校に家庭(親)は何を期待しているのだ。学校は学び舎だ。詰め込みだろうがなんだろうが厳しい学習をするところであり、部活や生活指導の場ではないはずだ。親をクレーマーよばわりし、土日も仕事、夜も遅くまで働く教師は、ほとんど勉強など教える時間はない。無益に忙しい教師を放置して、日本の未来を語るのか。
狂っているというほかない。
しかし、親側の事情もある。それは家族と住宅事情による。
ここでもうひとつの記事。
記事はほとんど長寿だった寂聴さんの健康法についての内容なのだが、とても身につまされる内容も示されている。
インドの原始経典「スッタニパータ」には、
「両親が老いて衰えているのに、これを養わず、自分だけ豊かに暮らす人がいる。これは破滅への門である」とある。二千五百年前の釈尊の在世時代、すでに、社会に変動がおこり、都市生活が生れて、それにつれ、親の面倒を見たがらない子が増えてきていたのだろう。だからこそ、こういう戒めも生れたのだと思う。そして家庭料理が姑から嫁へ、母から娘へと教え伝えられていて、自分の家の味というものがあり、それを得意になって食べさせてくれる。孫は祖父や祖母の膝に坐りこんで安心しきった顔をしている。
ジョージ秋山さんの『聖書』を必死になって読んだが、そこにも何かしら教訓はあった。人間は愚かだ、という立場から様々な教えを解くものだが、ブッダの教えは日本にも少なからず影響している。家族という単位の重要性。代々言い伝えられるもの。それがブッダの経典に示されてるらしい。しかし・・・
湾岸戦争の時、イラクへ薬やお金を持っていった時も、バグダッドの庶民の家庭へ招待されていくと、ごく小市民的な、日本でいえば実直なサラリーマンの家という感じのせまい家の中に老夫婦と、息子夫婦と、その子三人と、まだ嫁にいかない三人の妹が同居して、和気藹々として暮していた。そこにはもう日本ではめったにお目にかかれない家族のあたたかさがみちていた。
日本ではめったにお目にかかれない家族のあたたかさ・・・
そう、日本にはもう家族という単位が失われしまったのだ。親も教えない祖父祖母も教えない兄弟もいない近所も教えない、そして教師もまともに教えない。誰からも教えられない孤独な子供はどう育てばいいのだ。子供は孤独なのだ。その孤独に寄り添える人間社会が喪失しているから、SNSや犯罪の道に誘われてゆくのではないのか。
『日本人はどう死ぬべきか』という、養老孟司さんと隈研吾さんの対談本がある。ここで隈研吾さんが書かれていることは、日本の住宅事情、つまり核家族化がこの国を滅ぼした、とまでは書いていないが、それに近いニュアンスが示されていて、東洋経済の寂聴さんの記事に近づいてゆく。
親や故郷から離れ、家族の単位が小さく小さくなればなるほど経済は豊かになる。家は売れ、ローンが組まれ、銀行を中心とする金融社会が人の命を貪ってきた。その上に政治や官僚が居座り「安定」というニセ現実を示してどんどん社会を水没させてゆく。これが日本の政治、いや官僚が描いた設計図だ。しかしおかげで多くの日本人、自分も含めたこの国の人々は人間性を失い、家族という絆を手放した。
・・・・・
自分も幼い頃は、祖母の家に集まって、年に何度かは大勢でワイワイやったものだ。あの時の教えには色々な意味があった。いまは親とも断絶。自分の家族すら守れない。これは”血”だ。少し仲のいい従兄弟も同じ。もう家族という単位の行き方はできない。
そして・・・
いつものことだが、『もう終わりにしよう』。
★
こんなブログもやってます(=^・^=)
KINENOTE
Filmarks
goo
FC2
Muragon
seesaa
Livedoor
楽天ブログ
ameba
wordpress
Hatena
にほんブログ村
人気ブログランキング
Twitter
Facebook
ブロトピ:映画以外の記事で!ブログの更新をブロトピしましょう!!