安藤ミュージアム、「南寺」タレル 直島
直島に限らず充実した時間を過ごす。いや時間はどんどん過ぎてゆく。本来ならこの島に数日宿泊して、何度も何度も作品を鑑賞し、その意味を受け入れるという楽しみ方もあると思う。しかし時間はそれを許さない。なさけないことに我々に残された時間には限りがある。
ジェームズ・タレルの「南寺」の予定時刻まで少しあったので、あわただしげにここ「安藤ミュージアム」に降り立つ。
安藤忠雄はこの島、あるいはこの直島を中心とする瀬戸内海のプロジェクトの中心人物でもある。前述のとおり「地中美術館」は安藤の設計だ。そしてこの「安藤ミュージアム」もまた、外から見る限り古ぼけた古民家、町の一部として溶け込んでいる。外観だけ見てもその地味さであやうく通り過ぎてしまいそうなぐらいだ。ところが・・・
よくこの狭い空間にこのような亜空間を作り出したかと思うほど、とてつもなく奥が深い。どんどん下の階へ向かうと、地下2階か3階あたりに位置する湾曲を駆使した空間は音を失い静けさが訪れる。外は木造、中はコンクリート。そしてこの島の作品に共通する光の受け入れ。この光がまるで十字架をイメージさせるのは、安藤の教会シリーズで演出された作品への招待状なのかもしれない。祈り・・・
地中美術館に行けばわかるが、あそこは迷路だ。歩いているといつしか自分がどこを歩いているかわからなくなる錯覚を感じる。しかし、これを俯瞰で捉えると、そこにはとてつもないアート作品が存在していることがわかる。空から神が見下ろした美術館。地上にいる者は神に祈りを捧げ、神はこの自然と一体化した構築物とともに生きる人びとに赦しを与える。そんなドラマが見え隠れする。
極めて狭く小さな空間に感じされるが、その空間は日常から我々を別の光と影の時空へと誘い、いつまでもここに留める力を持つ。
そして・・・
ようやく「南寺」に入る時間となった。
こちらの動画は「地中美術館」の作品を紹介させる映像で短い映像の中にタレルのコンセプトが一気に詰まっているのだが、この「南寺」については説明が難しい、
というか、これを説明することほど無益なことはない。アートや音楽など、あらゆる文化を言葉や文字で説明することは無益だ。映画のレビューを残すのは自分のため。評論家は大勢の人に作品を普及させるため。それぞれに役割があるだろう。しかし、たとえばタレルの作品を評論家はいったいどのように説明するのだろうか。あるいは説明できるのだろうか。
南寺は見たとおり、外観は黒板で覆われた木造建築であることはわかる。所定の時刻になると、係の方が丁寧に丁寧に注意事項を説明する。その際、厳重に注意されることは、
「光のあるももをオフにして入ること。」
である、何度も念押しされる。係の女性は英語も堪能で、海外から来られた方にも同じように丁寧な説明を施す。「光を持ち込むな」これがルールだ。もうこれでほとんど作品の説明を終えている。それだけだ。あとは15人程度の人に別れて寺の中に入る・・・
もうこれ以上何も書けない。導かれて入り、しばし過ごした時間、最後に示される驚くべきこと。衝撃の事実。人間がいかに光の錯覚の中で過ごしているか。人間はいつしか光を無益い享受し捨て去っていないか。我々が人類以上に動物として存在すること、生き物として享受する光の意味を、このわずか数分の間でタレルは我々になにかを突きつけるのだ。恐ろしいことだ。
「Backside of the moon」
この作品、この体験はこれまで感じたことのない未知の世界だった。
長い時間を過ごした直島の終着点を「南寺」にしたことで、なおさらインパクトが強いかもしれない。そしてこの時間という概念がもたらすものをもまた何か別のものへの変換を予感させる体験であった。
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