アフター・ヤン コゴナダ
長く脈絡のない記事になってしまった。読まないほうがいい。面白くもなんともない。
After Yang | Official Trailer HD | A24
コゴナダ監督というと、大変評価の高かった「コロンバス」だ。素晴らしい映画だった。
コゴナダ監督の『アフター・ヤン』をシャンテで鑑賞。土曜日の午後だったが、かなり大勢のお客さんが入っていてその熱気に圧倒される。シャンテの地下はスクリーンを見上げる映画館になっていて、座高の高い方が前に座ると字幕が見えない。ちょっとイマイチな映画館で、入場の仕組みもよろしくない。せっかくいい映画を上映するんだから、もうちょっとマシな構造にしてほしいと願う。東宝という会社は所詮そういう会社だ。
東京国際映画祭開催中で、あちこちで宣伝されている。
ミッドタウンではアストンマーチンが展示されていた。かつてジェームズ・ボンドが乗ったアストンマーチン。
外では巨大なスクリーンが設置され映画祭を盛り上げる。
さて本題。
コゴナダ監督の長編2作目で、この後今年になって、TVシリーズの「パチンコ」という作品に取り掛かっているらしい。
韓国系アメリカ人であるコゴナダ監督の志向は、極めてアジア的であり、さらに言うと日本的だ。この映画の風景、主人公の家族が対話する家の向こうに映されるのは日本庭園だし、廊下や扉を映すシーンはまるで小津安二郎作品(あるいはベルイマン作品)にも似ている。
外形的にコゴナダ作品を何か(誰か)と比較するのは容易だが、それはあくまでもメソッドでしかなくて、この映画の言わんとしていることは深く重い。
白人と黒人の夫婦が可愛らしい中国系の養子を受け入れて、同じ中国系のヤンというロボットが世話をする、という設定。原題の"Saying Goodbye to Yang"こそが、この映画のテーマだろう。いま自分が目の前にしているパソコンやスマホ、ありとあらゆる機械が人間社会を支配している。その究極の側にいるヤンを人格化させ、動かなくなったヤンの記憶を頼りに残された映像からさまざまな想像を重ねてゆくドラマ。その記憶の中に映された女性はいったい誰なのか?果たして本当にその女性は存在するのか?
アンドロイドがまるで人間のように存在する、という恐怖を感じる。まるで人間そのものだ。本来無機質であるはずの機械に温かみを感じる世界。このアンドロイドは人間と一緒にお茶をたしなみ、一緒に踊り、一緒に泣く。しかしそれは本当のことなのか?
本当に彼は存在するのか。養子を受け入れた夫婦がヤンに子育てのすべてを託すことが真実と言えるのか?兄のようにヤンを慕った少女が失ったものは大きい。この子供の喪失感をアンドロイドが埋めるという矛盾。この三人と一体のアンドロイドは4人の家族だ。家族だが、これが本来あるべき本当の家族なのか。死生観について孔子思想を口にするヤンはいったい何者なのか?
このように、この映画はありとあらゆるテーマをやんわりと我々に突きつける映画だ。正直言って難解だ。素直に見ることができる映画とは言えない。しかしこの美しい映像表現と、ヤンの思考に入り込む空間は、見る側に何かを示唆しようとしている。動かなくなったヤンこそ、我々人類が直面する本当の避けがたい問題を示しているのではないか。停電したら何もできない社会。ネットが繋がらないと何もできない人類。ヤンがいないと動かない家族。これはいったい何を意味しているのだろうか?
キネノートの詳しいレビューはTwitter経由でこちらへ。
映画レビューを投稿しました。
「#アフター・ヤン」92点 - #タルコフスキー,#KINENOTE https://t.co/CcSlfCKVOY #KINENOTE #キネマ旬報 #映画— dalichoko (@chokobo88428241)
そえまつ映画館でもかなり詳しく解説している。
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