経済社会の学び方② 猪木武徳著
第4章 曖昧な心理は理論化できるか
1918年の「米騒動」について書かれている。思惑が政治や経済を動かすことがあるということ。米価が上がるという思惑が全国に広まり、暴動になったケースである。大恐慌の取り付け騒ぎもまた同じで、ここには何らかの思惑が働いている。インフレ不況も個人と行動と全体の結果に何らかの悪循環を示すことがある。いわば”赤信号を大勢で渡る”という行為は全体秩序を崩壊させる。乱開発が急激なインフレと暴落を生むのも同じだ。こうした一過性の曖昧な人間の心理が反作用を生む。バーナード・デ・マンデヴィルのこのシンプルな言葉は意味深い。
私的な悪徳は公的な利益
第5章 歴史は重要
ここでは日本の商慣習と終身雇用制度を歴史的に確認する。優秀な社員(丁稚)を教育し離職を阻止するための工夫が施されてきたというものだ。かつての日本社会では当たり前の行為、つまりいちど会社に勤めたら定年まで勤めるのが当たり前の時代。この文脈で猪木先生はジャレット・ダイヤモンドの「文明崩壊」に話題を飛躍させる。日本の終身雇用制度が崩れたことと文明崩壊を同義的に並列することで示唆的な意味をもたらそうとしている。
第6章 社会研究とリベラル・デモクラシー
そして最終章でいよいよ”デモクラシー”に言及してくる。ガリレオの宗教裁判を事例にして、科学がどうしても政治的(宗教的)に利用されてしまう現実を解説する。原子爆弾の投下も今般のコロナや災害も同じ。特にコロナにおいては不確実な情報が散乱し、しかもSNSなどで事実と虚実が入り交じる。ここで本書はマーシャルの”Cool head but warm heart.”を最後に持ち出し「共感」の表裏を示す。
経済学は富の研究ではあるが人間研究の一部でもある
これは言わずもがななのではあるが、なかなか人はこのことに気づかない。ケインズはマーシャルの弟子でありながらマーシャルを否定した。その否定はゼロにすることではなく、マーシャルの理論が前提としてあったからこそ新しい発見へと発展したものなのだ。リベラル・デモクラシーは社会研究だとしてこの本は終えているが、ここでやっと気づくことがある。
つまり・・・
この社会はもうデモクラシー(民主主義)を必要としない、ある意味デモクラシーの限界までたどり着いたのではないだろうか。こう書くと、危険思想と伝わるかもしれないがそうではない。このブログで紹介した「ローマ史」にもあるとおり、ローマはギリシャの滅亡から学び、1200年ものあいだ帝国を維持しつづけた。そのローマでさえ崩壊する。
こうした歴史の背景には、小さな社会と歴史の積み重ねがあり、民主主義と専制主義が大きな時計の振り子のように揺れては戻る。光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」の最初に描かれる光景、”寄せては返し、返しては寄せる”ような社会変化を、我々は当たり前に資本主義や民主主義を当然として見過ごしてはいないだろうか。
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