#ダリチョコ の映画とグルメ

しょーもないブログです。I am stupid anytime.

ホワイト・ノイズ  ノア・バームバック監督

この映画は資本主義社会を真っ向から否定するとてつもない壮大な映画だ。あらゆる情報がここに凝縮されている。


かつてノストラダムスが予言した世紀末に人類は滅亡しなかったが、この映画を見る限り、生き残った人類において滅亡が粛々と進行していることを感じさせる。天才であるノア・バームバックはこのことを理解したうえで、1980年代に出されたドン・テリーロの原作を今の時代に重ねようとしたのではないか。このことでドン・テリーロの予言性のようなものをも感じさせる。
ドラマの展開は、他のレビューやブログに譲る。

シネマーチェ

『ホワイト・ノイズ』12月9日(金)より一部劇場公開
3つの章からなるこの不思議なドラマ、冒頭から刺激的だ。アメリカ映画の衝突シーンを延々と繰り返す。この衝突の意味が列車と有毒物質を運ぶトレーラーの衝突の暗示であることはあとになってわかることだが、冒頭は主人公の大学教授ジャック(デブになったアダム・ドライバー)と友人マレー(ドン・チードル)による会話で進む。ここではヒトラー研究が中心で、友人のマレーはエルビス・プレスリーを専攻している。ここでの共通項はカリスマ性だ。あとあとわかることだが、このカリスマは宗教、特にキリストを意識している。いずれも人を惹きつける人物としてのメタファーだ。


ジャックは何度か結婚を繰り返し、現在のワイフであるバベット(グレタ・ガーウィク)と4人の子供に囲まれて暮らしている。80年代の一見平凡な家庭だが、長女は妻の前の夫との間に生まれた子で、現在の父親をジャックと読んでいる。この不思議な家族は、大学教授の父親や物忘れが激しい母親よりずっと大人で、それぞれが理屈っぽい。母親が忘れっぽいというところは、最後に薬物依存の話しに飛躍する。


ここで前半のクライマックス、列車とトレーラーの衝突で有害物質がもくもくと舞い上がる。震災を経験した日本人にとって、これは厳しいシーンだ。ここから主人公を中心とする人物たちが見えない恐怖におののいていく。映画はかなり恐ろしいことを示しているが、表現はコミカルだ。地域放送があるまでのんびりしている親を説得し、なんとか車で家を出たら地平線の先まで車が並んでいるという現実。ここから車の中の家族が描かれる。カメラが狭い車の中で回転し、自分の鬼気迫る表情を捉えるシーンは印象的だ。ときにこの映画のカメラワークは極めて斬新で、ミクロとマクロを交互に示すことで、人間の小ささと地球の大きさを比較する。途中でガソリンスタンドに寄るシーンもすごい。ガソリンを入れるジャックの背景の雲に隠れて宇宙船のような光が見える。ジャックはそれに気づかない。そしてその光がシェル石油のマークだった、というオチは笑えない。我々は見えないもので見えるものを想像する。このシェルのマークですら、見える雲から有毒物質かわからない。ここもまた極めて印象的なシーンだ。この時ジャックが浴びた有毒物質で余命が限られている可能性が語られる。ここから映画は「死」に向き合ってゆく。家族が車で逃げ惑うシーンの途中、子供が落とした人形を拾ってくれる人物が現れる。ここでは顔が映らず、その後姿はどこかで見覚えがあるような・・・


ここでいう「死」ですら、映画は現実を示さない。パンデミックがおさまって、妻のバベットが窓の外を見て毎日泣いている。もともと物忘れのはげしい妻がなぜ泣いているのかわからない。彼女がダイラーという薬を常用していることを長女がジャックに教える。ここからは夫の妻に対する嫉妬と薬物依存など、アメリカの恥部と呼ばれる側面をぐいぐい示してゆく。ジャックはダイラーの元締めミスター・グレーと連絡が取れてモーテルに向かい、その人物と対峙する。この人物をナザレのイエスとする説もある。救世主が薬の元締めというのは宗教そのもの、あるいは人類への挑戦とも取れる。ここまで来ると映画がとてつもないスケールの映画であることが明らかになってくる。主人公のジャックはモーテルでミスター・グレーを射殺する。しかしグレーは一瞬にしてよみがえり、ジャックとその後ろに現れた妻のバベットに発砲する。イエスは復活したのだ。この映画には80年代当時のブラウン管モニターが時々現れる。猛毒から逃げるときに避難場所でモニターを頭に掲げて演説する男。そしてモーテルで消えたモニターから妻とグレーが体を重ね合うシーンが見えてくる。テレビが見下ろす、という表現は、メディアの暴走を示す。監視社会へのメタファーともとれる。


最後は宗教の否定で終わる。いまここは日本人がしっかりと焼き付けるべきシーンではないか。怪我をした三人が教会系の救急病院(従事者はドイツ人)で手当てされるが、尼僧から宗教を小馬鹿にしたとようなセリフが吐き捨てられる。



映画ではラストシーンを含め、時々大きなスーパーマーケットが出てくる。これは消費社会を象徴する。セリフでも出てくるが、スーパーに来た客は目的と関係ないものまで買ってしまう。俗に言う「ついで買い」を強いられる。ラストシーンはそのスーパーマーケットを俯瞰で見下ろすと、大勢が大団円を迎えるように踊って終わる。消費も何もかも資本主義社会の終焉を物語る。


結局この映画は何も主張していない。敢えて主張を控えているようだ。だが、数々のシーンの中に、現代社会の見えない暗部を凝縮させている。そしてこのドラマの空虚さは、まさにこの世界が資本主義にむさぼり尽くされ、なにもかも失ってしまったことを伝えようとしていると思う。




最後に、バームバックは間違いなくフェリーニやアルトマン、あるいは黒澤明の「まああだだよ」にもつながる群像劇をラストシーンに込めたかったのではないか。映画監督が映画監督たる所以であり、ベルイマンやヴィスコンティもこういうシーンを撮りたいと思っていたはずだ。


ブロトピ:ブログ更新!記事内容更新!はこちらへ!


にほんブログ村 グルメブログ 日本全国食べ歩きへ

にほんブログ村 旅行ブログ 歩く旅へ

にほんブログ村 その他スポーツブログ スポーツ好きへ

ブログランキング・にほんブログ村へ

こんなブログもやってます(=^・^=)

×

非ログインユーザーとして返信する