#ダリチョコ の映画とグルメ

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「武器とカメラ」 最近の映画から

3月に立て続けに見た映画を冷静に振り返って、今年の映画の傾向を読み取る。ちなみに昨年、2022年の傾向は「言葉」だ。「ケイコ 目を澄ませて」や「コーダ あいのうた」など、口から言葉を発することのできない人物のあがきなどがテーマの映画が多く、これらが時代を写していたと思う。対して2023年、まだ数ヶ月しか経過していないが、今年の映画のある傾向を感じる。つまりはMe Too運動なども根底は同じで、「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」や「スキャンダル」や「ハリウッド」「プロミシング・ヤング・ウーマン」・・・ありとあらゆる題材がここに集結する。


発端は「フェブルマンズ」だ。町山智浩さんの解説などを聞いて、この映画がスピルバーグの単なる思い出物語ではないことを学ぶ。スピルバーグはこの映画で「映像の恐怖」を示しているのだ。カメラが母親の不倫を偶然映す。カメラは正直で何もかもを映し出す。しかし彼はこの部分をカットして編集する。カメラは映すこともできるし隠すこともできるという意味だ。最後にデヴッド・リンチ演ずるジョン・フォードが、壁の写真で地平線を示すが、彼はスピルバーグに「どっちに進むのだ?」と問うているのである。虚か実か。カメラが不自然に上下して終わるラストは印象的だ。これらの傾向はドキュメンタリー映画でよく議論になる部分である。

佐井大紀監督の「日の丸 寺山修司40年目の挑発」という映画は、この文脈においてある種の恐怖映画のようだ。道行く人にマイクを向け「日の丸」や「君が代」について問い詰める。それをカメラがじっと捉える。人びとの言葉からこの国の40年が語られる。しかし映画は後半にかけてまるで違う主題を探ろうとする。インタビューをする側のジレンマ。マイクやカメラがまるで「武器」のように人びとを見据える。質問に応じようとする老婆が作り笑顔で答えに困っているシーンなど、強烈なシーンが続く。カメラは道行く人にとって恐怖だ。


かたや、映画はドキュメンタリーの現場でも人物を神格化する場合がある。マイケル・ムーア監督のように自らを主人公として被写体を追いかけるドキュメンタリーもあるが、原一男監督の「ゆきゆきて神軍」など、映画の中に主人公を生むパターンだ。特にこの映画は過激な主人公を背後から追いかけるという内容だ。時代を越えて、大島新監督の「香川1区」は政治家本人を追いかける。(小川淳也氏が総理大臣になることはないだろう。)この時問題となるのは、片方の陣営を追いかけることで、敵対する陣営の情報が途絶えがちだ、というバイアスの問題。「妖怪の孫」という映画にも同じ問題が生じている。関係者の話によれば、取材を申し込んでも断られたということで、どうしても片側に情報が偏ってしまったということらしい。「劇場版 センキョナンデス」などは比較的フェアな作りのように見えるが、やはり取材拒否の影響だけでなく、つくり手側の意思がどうしても働いてしまうのは妨げようがない。ちなみにドキュメンタリーだけでなく、ドラマにおいてもキャプラの「群衆」などにカメラは不寛容だ。つまりこれはカメラを媒介することの矛盾を示すものだ。ありもしない存在を神格化することの恐怖。

この話になっていつも思い出すのは、今村昌平監督の「人間蒸発」だ。タイトルの衝撃もあるが、カメラが追いかける夫に失踪された妻と彼女に寄り添う俳優の露口茂。ドキュメンタリーでありながら、まるでドラマのような展開に進んでゆく。そしてラストの衝撃。今村昌平は常にカメラが犯罪的であることを意識して映画を撮っていたのではないかと思わせる。


このテーマを取り上げた理由はひとえに足立正生監督の「Revolution+1」による。足立監督が昨年の大事件のあと、まっさきに取り組んで、国葬の前日に公開(試写)されたこの映画に、その全てが集約されている。昨年の春「表現の不自由展」に出向いて、街宣車が取り巻く恐ろしい環境にアートが追いやられていることに愕然としたのだが、映画もまた同じ危機に瀕している。そして報道や表現の自由を妨げる大きな力が、昨年のこの事件からじわじわと反作用を示していることを感じさせる。足立正生監督はいわばその先頭打者のような存在だ。この足立作品の主人公が持つ銃はカメラなのだ。ここ10年の与党政権がたくみにメディアを使って嘘の印象を与え、力づくで報道を締め付ける。挙句の果てに憲法を書き換えて自分たちの都合のいいように世の中を変えてしまおうという愚かな姿勢も、カメラという武器によるものだ。


自分は映画が好きだ。


しかし、全ての映画をそのまま飲み込んで信用することもまた恐ろしいことだと自覚している。しかし、カメラは常に政権を睨むべきものだと思う。スラップ訴訟が権力者によって利用される矛盾は、憲法改悪を容認することとパラレルの関係にある。絶対に許してはならない。アンシュル・チョウハン監督の「赦し」のラストシーンをよく見れば、この国の人びとが空気に流されてゆくことを諭してくれる。


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