テロルと映画 ③ 哀悼的想起

テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書 2325)
テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書 2325)
中央公論新社


第7章 ベロッキオと夢の論理 歴史と想像的なるもの


自分は四方田犬彦先生のこの本を読むまで、恥ずかしいことにイタリアの映画監督マルコ・ベロッキオのことをまるで知らなかった。



84歳とまだご健在で、驚くことに昨年の東京国際映画祭に出品までされている。


イタリアの歴史をたどると「鉛の時代 (イタリア) 」と言われる国家と左翼運動の対立が著しい中、パゾリーニが謎の死を遂げるという事件が1975年に起きる。そして1978年、すでに首相を退いていたアルド・モーロ誘拐をめぐる事件をベロッキオは「夜よ、こんにちわ」(2003)という映画で切り込んでいる。



ESTERNO NOTTE (2022) Trailer ITA del Film di Marco Bellocchio su Aldo Moro


モーロを誘拐して殺害した「赤い旅団」と呼ばれるテロリスト集団をコミカルに描いた作品だが、キアラというモーロの見張りをする少女が集団に対して疑問を抱き始めるという物語だ。監禁している部屋の鍵穴をとおして、モーロとキアラの目線が合い、事件の外側にいいた少女がいつのまにか内側にいるという多重構造になっているらしい。


ベロッキオは「映画における革命は観念の変更でなければならない。」と述べ、政治を用いてこれまでなかった政治を実現しようとしたのだそうだ。こういう行為は日本で許されない。国家とメディアが結託している表現が不自由なこの国で、ベロッキオのような作家は映画を撮れないであろう。


終章 哀悼的想起としての映画 テロルの廃絶に向けて


先ごろ見た、アイルランドの革命家「マイケル・コリンズ」のような暴力革命を誰もが望んでいるわけではない。テロの廃絶は必然ではあるものの、体制が社会性を失ったとしたら、テロリストが生まれることを否定できないだろう。問題はテロが生まれる背景を根絶できるかどうかだろう。


四方田犬彦先生は、第4章から7章まで4人の映画監督の作品を深堀りして論じているが、奇しくもこのうち3人は国家がファシズムで世界にとってテロル的な存在だったことを認める。残りのブニュエルもスペインの内乱を経験したひとりで、いずれも戦争というテーマが大きく重なっている。


ここでヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」からの一節を引用する。


絶対神が裁定しない限り、過去は生産されない。


四方田犬彦先生の言わんとすることは、歴史から謙虚に学ぶべきだという考えだ。これを「歴史を哀悼の眼差しで見る」という表現で締めくくる。過去の映画監督がテロをみつめたのは、その行為ではなくそこに至るまでの過程だ。そのことを四方田先生はここで強く強調していると思う。”新しい歴史”と称してポピュリズムを誤った方向にリードして、新しい戦前を生み出そうとするこの国行き先を誤らせてはいけないと思わせる。


#新しい戦前 ① #内田樹 / #白井聡 「この国の”いま”を読み解く」 

#新しい戦前 ② 加速主義化する日本 「The Boy and the Heron」 

#新しい戦前 ③ 幼稚なこの国はどこへ? 「ナワリヌイはどこへ?」 


足立正生監督の「幽閉者 テロリスト」(2007)に言及する。重信房子さんと行動をともにした足立監督のこの作品は、幽閉されたテロリストの極限の孤独を描いたものだが、彼らの仕事はまだ完結していないと言われている。(「革命の子どもたち 」(2010)で重信房子さんの娘メイさんが登壇されている。)





映画監督の目をとおして様々な角度から描かれたテロリストを、四方田犬彦先生は冷静且つ端的に示されている。とても読み応えのある本だった。



おしまい。


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