映画評論家への逆襲 ④ 勝手にしゃべりやがれ!
第6章 高倉健vsイーストウッド 顔に刻まれた男の来歴
森達也さんがニューズウィークに連載されている「私的映画論」から、高倉健さんの話題を取り上げる。
健さんが生きていればクリント・イーストウッドと同じぐらいの年令だそうだ。
この回は小中和哉さんが参加して2人の共通項などを導きだず。小中さん曰く「ふたりとも少ない演技で効果を出す」俳優だという。そして「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」は2本セットで「トラ・トラ・トラ」の再現だとして高く評価している。これは面白い話しだ。
荒井晴彦さんは「法律でどうにもならないなら俺がやる。」という意味で「ダーティハリー」の在り方を評価する。井上淳一さんは「ダーティハリー2」をジョン・ミリアスとマイケル・チミノという愛国者の脚本なのに、警察内部の内ゲバについての話しになっていると説明する。森さんは「小中さんの『ウルトラマン』にも共通する。」と補足する。
2020年9月26日 出町座(京都)
第7章 評論家への逆襲 さらに映画の闘争は続く
いよいよ最後の章では、映画を闘争の武器として考える彼らのホンネが激突する。
森達也さんや荒井晴彦さんは、映画が細部を無視して作られることに懸念をしめし「神は細部に宿る」の言葉を借りて、日本映画の衰退原因に評論家がそうしたこと、つまり細部について指摘しないことを憂いている。
荒井さんは「この世界の片隅で」を批判し、あの映画で「すずさんが南京大虐殺の提灯行列でバンザイするシーンを入れないのはおかしい。」と言う。いつのまにか加害に加担していたことを描くべきだということか。
井上淳一さんは、日本の批評をダメにしたのは蓮實重彦氏ではないかと問いかけ、蓮實氏の講義を聞いて育った蓮實チルドレン(黒沢清など)を痛烈に批判する。いわゆる「表層批評」批判だ。荒井さんは「痛いところを突く評論がなくなった。」と嘆く。荒井さんは作り手であり評論家でもあるので、こういう意見になるのだろう。
森さん曰く「本当の敵はいまSNSだ。」とする。かつて映画や映画批評を巡る論争があって、長く議論が続けられた評論もあったが、昨今は映画会社の宣伝機能でしかない評論ばかり。だから見る側も成長しないし作り手も成長がない。「日本は世相に乗るだけの映画が多く、一極集中の付和雷同を重ねると、再び国を挙げて大きな失敗をする。」と警告する。
井上さんは「シン・ゴジラ」の評論で最も面白かったのはAV女優の戸田真琴さんの評論だったという。さらに、現場が細るから評論も細る、このデフレの悪循環は今後も続くだろうと言われている。(戸田さんのレビューは確かに面白い。)
こうしてまとめると長くくどい話しに感じるが、実は端的にいろいろなことがここに集約されている。自分もまた、映画の感想をこのブログに書き続ける者として、甘ったるい言葉が映画をダメにしている可能性もある。そもそも映画なんかより、ゲームなど多様な娯楽が増えたいま、映画そのものへのシェアも低下してゆくことだろう。映画なんか誰も見ないという時代が来る可能性だってある。
戸田さんのレビューにもあるのだが、映画が虚構を描こうとするとき、現実をいかに反映させることができるか?というところもポイントなのではないかと思う。現実感のない虚構は空虚でしかない。
おしまい
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