世界の凋落を見つめて ② イデオロギーは見えない
2014
日本国憲法の解釈変更により自衛権の行使範囲が広まった。
「台湾学生の立法院占拠」があった年で、彼らは何も破壊せず暴力も行使せず、ただ「民主主義を取り戻す」というために戦ったという。まるでお祭りのようだったらしい。革命もかくあるべきだ。暴力だけが革命ではない。
さらにタイ共産党のチラナン・ピットプリーチャーという女性政治家について「森のなかの武装闘争」というタイトルで紹介している。社会から切り捨てられ、森のなかに置き去りにされた人物。
ノンフィクションライターの「井田真木子の思い出」や、「リオの危険地帯」では、五輪がジェントリフィケーションでスラムを一掃するサマを指摘する。
2015
自衛隊が海外で武力行使できるようになった。
慰安婦問題に火がついた年。わたくしも当時「あいちトリエンナーレ」を間近で体験したのであの空気はよくわかる。
「いつも問題は少女」で四方田先生はこのように書いている。
イデオロギーはそれ自体としては見えない。その代わり親しげでわかりやすい映像を媒介して人々の内面に浸透していく。批評家はその修辞学を見破らなければならない。
自分は専門の批評家ではないが、一個人、人間として、この言葉に深く心を揺さぶられる。「オマエはそれでいいのか?」と。
「フランスの漫画雑誌」では、辛辣な政治批判のパロディが人気だが、日本では報道から寛容と達観という姿勢が失われているという。
「ジョークはどれも似ている」でジジェクの”猿でもわかるラカン”を紹介する。
神を信じる男が、神がいないと理解した途端、神に罰せられるのが怖いと叫びだす。神がいないということを神は知っているのだろうか。
これをジョークと受け流すことができるだろうか。
「ザハ・ハディト問題 新国立の設計」もまたうんちくがある。芥川賞を受賞した「東京都同情塔」にもつながる。ハディトの作品は女性の性器に酷似していた。それを知って設計者を変えたかどうかはわからないが、ハディトの作品が東京のど真ん中に存在したらどれほそ素晴らしかったことだろう。四方田先生は五輪が都市を破壊することの意味を問う。
つづく・・・
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