世界の凋落を見つめて ④ この国は終わっている
2019
ノートルダムと首里城が焼け、令和に変わって消費税が10%に引き上げられた年。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由」問題が露出。
「貧しくなる音楽体験」で、WHOがイアホンの長時間使用に警鐘を鳴らしている。このままだとイアホンが原因で11億人が難聴になるらしい。ノイズのない音楽体験は想像力の低下をもたらすという。「最後まで沈黙」は、中国の四人組のそれぞれの対応を比較する。毛沢東の妻、江青は裁判官を罵倒し、張春橋は無言のまま死刑となる。沈黙は抗議であり、裁く者をあざ笑う。「建築と記憶」、破壊は一瞬だが修復には時間がかかる。五輪は都市を計画的に破壊する行為だとしている。「外交官のレベルの低さ」で、この国の外交官を徹底的に罵倒する。ウィーンの現代美術館で安倍晋三のパロディに気づいて慌てて公認を取り消すという不寛容と体たらく。
こういうことに目くじらをたてるときの首相の狭量さが問題だと思う。
2020
コロナが発生し、世界にパンデミックが広がり東京五輪は1年延期。バイデンが大統領に就任し、安倍晋三が辞表を提出。菅新総理は日本学術会議の任命を拒否した初めての首相となる。
映画館が次々に休館となり、ミニシアターが大ピンチに立たされる。
「死者の数字なのか」ではガザについても触れている。
南京、アウシュビッツ、広島、済州島、歴史家と歴史修正主義者はいつも殺された人数だけを争点にしたがる。数字は人を無感動にし、真実の論点をはぐらかす。コロナ報道の単純化は危険だ。
「感染者はケガレか」では、日本人が世界を「清らか」か「汚れ」かの二択でしか見ていないことを踏まえて、
日本人には汚れを内面化し、歴史的に検討する契機が欠落している。汚れた者はただ排除するだけで、ともに生きようという発想がない。
まさにそのとおりで、先ごろの「旧優生保護法の最高裁判決」の歴史も然りだ。
戦前は「アカ」、戦後は「ホモ」が汚れで、いまは「コロナ」。そして汚れを秘密にしようとする本能が日本人にはある。汚れと清めは罪と罰ではない。そして「みそぎ」という水に流すほうほうで全てを忘れ何もなかったことにする。
こうした中期の歴史を見直すのも悪くない。
この国は明らかに2011年の震災でクラッシュし、翌年の政権交代で狂い始めた。そしていまはもうそれを軌道修正する力もない。残念だが四方田犬彦先生が当時書いた記事の予見性は高い。
返す返すもこの国は終わっている。
こうした考えを、短絡的に「反日」よばわりしたり、「左翼」というレッテルでカテゴライズするのかいかがなものかと思う。
おしまい
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