生まれておいで 生きておいで① 内藤礼
このタイトルに合わせて、今日が自分の誕生日なのは偶然なのだろうか。自分の誕生日などまったく嬉しくもなんともないが、偶然に内藤礼さんの個展を振り返る日が自分の誕生日とは不思議なめぐり合わせだと思う。
内藤礼さんについてあれこれ並べても意味はないが、彼女の代表作、豊島美術館の「母型」に初めて接した日のことは忘れない。その衝撃。その場所に存在する自分を忘れてしまうような「無」の世界。地面を這う動物のような水滴。天井の大きな円形の穴から舞い込む風と風に紛れて入ってくる昆虫たち。思い出すだけで胸からこみ上げるものがある。
今回の内藤礼さんの個展は、上野の国立博物館で開催されるインスタレーションに合わせて、銀座のエルメスフォーラムと同時開催となる期間があって、9月半ばに両方体験することができた。
朝、国立博物館でチケットを購入するが、入場できるのは午後3時半ということで、仕方なく銀座を先に鑑賞することにした。銀座エルメスも混雑が予想されたが、お昼近くの時間帯であっさり入場できた。エレベーターで案内してくださった方から説明があって、場内撮影は禁止。なのでこのブログでも雰囲気だけしか伝えることができない。
エルメスフォーラムはそれなりに混んでいて、2つのフロアに熱心な鑑賞者が押しかける。外国人の方も多い。
内藤礼作品をどう鑑賞するかは自由だが、そもそもそのスペースのどこに作品があるか探す作業から始まる。同じパターンの作品、例えば「座」や「枝」「通路」「風船」など、そして豊島美術館と同じ「母型」というタイトルの作品もあるのだが、それを探すのに苦労する。
宙に浮いている白い小さなものがある。
それに近づいてよく見ると、見えないほどの細い糸が高い天井から下りていて、その天井にも「鏡」という作品が仕掛けてある。
スペースの隅っこに何やら曲がった枝が立てかけてある。タイトルは通路。
こうした作品群は、内藤礼作品としては珍しいものではなく、彼女がかつてどこかで演出した作品の繰り返しである。しかし、その存在感は時代によって大きく変化する。タイトルの「生まれておいて 生きておいで」にその意味が隠されていないか。
生きることに価値などない
という仮説に正解などない。しかし「死」が存在するからこそ「生きること」に意味と価値があるとも言える。自分の誕生日に、何の価値もない自分を照らす。生きていても意味がないと、ずっと思ってきた自分もまた、親から命を授かってしまった。このおぞましい現実をいま目の当たりにしている。
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