50年後からの訪問者が変えた結末 — 是枝裕和監督『ラストシーン』を観て
◆50年後の未来からやって来た少女が、ひとつのドラマの結末を変えようとする——。
是枝裕和監督の最新作『ラストシーン』は、たった30分ほどの短編ながら、人生や存在の意味に深く切り込む物語です。しかも全編をiPhoneで撮影するという意欲作。今回は、この作品を観て感じたことをまとめてみます。
仕事先の皆さんと映画のあと食事したときにこの映画を教えていただきました。なんと是枝裕和監督がスマホで撮った作品です。いまや日本映画の大御所という立場で活動が注目される是枝監督のショートフィルム。もしよければ、このまま映画を鑑賞してみて下さい。
iPhone 16 Proで撮影 | 是枝裕和監督作品「ラストシーン」 | Apple
ファミレスから始まる物語
物語は、ファミレスで繰り広げられる“視聴率争い”を巡る脚本の書き替えシーンから始まります。
ドラマのタイトルは「もう恋なんてしない」。なんともベタな名前ですが、ここには二つのテーマが隠れています。
視聴率という競争社会に埋没していく個性
脚本家である主人公自身の人生と“恋なんてしない”という言葉の重なり
是枝監督は、この物語の入口を切り取るのが実に巧みで、『怪物』でも同じ感触を覚えました。
50年後から来た少女の使命
脚本の書き替えを求めて現れたのは、50年後の未来から来た少女。
彼女は、このドラマが未来にどのような結末を迎えるかをすでに知っています。
主人公と少女は慌ただしく撮影現場へ向かい、監督やプロデューサーと交渉しながら、ラストシーンを変えようと奔走します。
タイムリープものの中での独自性
本作は「時をかける少女」や「君の名は。」と同じタイムリープものでありながら、その手触りはまったく異なります。
例えるなら、岩井俊二監督の『Love Letter』に近く、死というテーマを重ねるなら藤井直人監督の『パレード』も思い起こされます。
観覧車が象徴するもの
物語の冒頭で大きく映し出される観覧車は、最後に圧倒的な存在感をもって再び現れます。
未来に存在する「死」—それは誰にも等しく訪れるもの。
本作は、死そのものを映さずに観客に意識させる点で非常に秀逸です。
死とは存在と表裏一体。50年後からやって来た少女は、何を意味していたのでしょうか。
『ラストシーン』は、タイムリープというジャンルの枠を超えて、「存在」と「別れ」のあわいを静かに描く物語です。
みなさんは、この観覧車が象徴していたものをどう解釈しましたか?
コメント欄やSNSで、ぜひ感想を教えてください。
長谷川知子さんのコラムもとても参考になります。
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