『爆弾』を観て思い出した黒澤映画

dalichoko(ダリチョコ)

「めまいと疲労の一日、そしてサブスク社会の憂鬱」 - 


爆弾」(KINENOTE)


今年2回めとなる同好会での映画鑑賞で、「爆弾」という作品を観ました。

ちなみに前回は「国宝」。

形のまったく違う2本ですが、どこか不思議と重なる部分があるように思えてなりません。


共通しているのは、“同一性”です。


「国宝」でも「爆弾」でも、生まれも育ちも違うふたりが対立します。

とくに「爆弾」では、取り調べをする刑事と爆弾魔という、最も相容れない関係性のはずの2人が、会話の中でじわじわと“似た匂い”を漂わせていく。

互いにヒントを出し合いながら、どこか根っこの部分が通じていることが浮かび上がってくるのです。


この展開を見ていると、ふと黒澤明の作品が思い浮かびました。

「野良犬」や「天国と地獄」、あるいは「七人の侍」まで含めると、黒澤作品には“善と悪はどこで分岐したのか?”という問いが一貫して流れています。

「野良犬」では、刑事(三船敏郎)とピストル強奪犯(木村功)が、どちらも帰還兵という同じスタートラインに立っていた。

それでも、ほんの少しの選択や環境の違いで、まったく逆の道に進んでしまう。


「爆弾」の佐藤二朗さん演じる謎の爆弾魔も、“どうして彼はそうなったのか”というドラマが丁寧に描かれます。

貧困や孤独、出会った人々との関係――その断片が彼を形づくっていく。

一方で、刑事という仕事の過酷さやストレスによって壊れてしまった家族の物語も並行して語られ、ふたつの人生が輪のように響き合う構造になっています。


怒りや憎しみの“爆弾”を、他人に向けて爆発させるか。

それとも、自分の中で静かに処理できるのか。

その境界は、じつは環境や巡り合わせ、そして小さな選択の積み重ねで決まるのかもしれません。


人は誰しも内側に何かしらの“爆弾”を抱えて生きている。

映画を観ながら、そんなことを考えさせられたひとときでした。


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