#ありふれた教室 イルケル・チャタク監督

「ありふれた教室」ゼロ・トレランス





新聞の片隅で紹介されていて、興味をもった。原題の"Das Lehrerzimmer"は「先生の部屋」という意味。割れ窓理論などにも関係する「ゼロ・トレランス方式」を扱ったドラマ。ちなみに監督のイルケル・チャタクはトルコ系ドイツ人。



教師が主人公ではあるが、人がそれぞれどこかの組織に帰属して存在する以上、どこかで同じような局面に立たされることがあるはずだ。自分の財布からお金を盗まれた教師が、パソコンのカメラで録画すると、クラスで最も優秀な生徒の母親(この学校の事務員)のシャツが写っている。教師が生徒の母親でもある事務員を問い詰めると逆ギレされ、むしろ録画したことを問題にして人格を否定されたと騒ぎ出す。


生徒は母親の真実を疑わず、教師はカメラの証拠映像を持っている。この微妙な関係がどんどん教師が不利になるように追い詰められてゆくという話しだ。


単にモンスター・ペアレンツを描くドラマではない。むしろそれは二次的な問題で、実はこのドラマにはもっと大きな問題が隠されている。教室にも職員室にも共通する何か。原題は「教師の部屋」である。教師の部屋とはいったいどこなのか?


最初のシーンで主人公の教師の固いおどおどした表情が映され、この表情と衝撃のラストシーンを見比べるとこの映画の主題が明らかにされるだろう。生徒も親も子供を思う気持ちは同じはずなのに、なぜこうも噛み合わない現実が続き教師が追い詰められてゆくのだろうか。この学校の教育方針は「ゼロ・トレランス」だという。


これを例えば「国家」という規模で考えると、うっすらと何かが見えてこないだろうか。
考えさせられる映画だった。とにかくラストがすごい。


チャタク監督のインタビューも合わせて読むといいかもしれない。


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The dramatic tendons of the film slacken a little in its third act and I wondered if screenwriters Çatak and Johannes Duncker were sure how exactly to finish their story.

脚本家のチャタクとヨハネス・ドゥンカーは、物語をどのように終わらせるべきか確信が持てなかったのではないか

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