#ダリチョコ の映画とグルメ

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#赤毛のアン モンゴメリ著 「議員も笑顔」

赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ1―(新潮文庫)
赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ1―(新潮文庫)
新潮社
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偉大な女性小説家モンゴメリがこの本を出版したのが1908年だ。この年ニューヨークで婦人参政権運動が起きていることを思うと、「未来を花束にして」や、女性小説家の映画として「コレット」あるいは「メアリーの総て」などが次々と重なってくる。


なんと美しいドラマなのだろう。


去年のブログにも書いたが、アンと時代を超えて「窓ぎわのトットちゃん」が同じような人物像として見えてくる。それはまた別の機会に書くかもしれないが、とにかくこの小説は見事。


アン・シャーリーの言葉の美しさを、この小説は丁寧に丁寧に積み上げる。アンが次々に失敗するエピソードに、彼女を警戒していた大人たちがいつしか彼女の魅力に取り憑かれるように変化する様がとても不思議だ。プリンス・エドワード島の美しい風景をバックに進むこの物語を堪能する。アンが次々に名前をつける風景が印象深い。「輝く湖水」「恋人の小路」「妖精の泉」など、そのどれもが詩的で美しい。アンにとっては「名前」をつけることが人生の全てだ。名前=アイデンティティ。花や木や自然の風景にもそれぞれアイデンティティがあることをこのドラマは強く印象づける。


ここでは、アンが数々の失敗を乗り越えて、くじけずに成長して少し大人になるまでが描かれる。ここで出会ったダイアナやギルバート、そして彼女を育てたマニラとマシュウというふたりの存在が大きく展開する。大親友のダイアナの母がアンを誤解して、娘との接触を断つが、アンの活躍でダイアナの妹が救われたとき謝罪するシーン。


「過去を忘却のマントで包むことにしましょう。」


世界が混乱するいま、命を落とす子供があちこちにいると聞いて、お互いを憎しみあうことの愚かさをアンのひとことによって救いがもたらされる気持ちになる。マニラとマシュウはこれまで子供と接する機会もなく老いてしまったが、アンとの肌のふれあいで生き生きとした生活がおとずれる。男の子を求めていたふたりの老人にとって、心の平和がなにより必要だったことが最後に示される。


「神は天にあり、世はすべてよし」



経験なクリスチャン(おそらくプロテスタント)で保守的な家庭の中で、斬新なアイデアを次々に繰り出すアンの姿が神々しい。マシュウが最後に「わしの自慢の娘じゃ」とつぶやくシーンに涙が止まらない。


言うまでもなく、高畑勲監督が演出した「赤毛のアン」も忘れられない。いや、実はこのテレビアニメを自分は見ていない。しかし、「アルプスの少女ハイジ」などのシリーズで、テレビアニメがこれほど世界の文学を紹介した時代があったことに驚く。このアニメを見ればわかるが、極めて余韻のある作りになっている。場面の切り替わりが激しい現代のアニメでは想像できな優雅さと優美さを兼ね備えた素晴らしい作品だと思う。



赤毛のアン 第1話「マシュウ・カスバート驚く」


この素晴らしい小説に「闇」の部分があることもガーディアンは指摘している。
なかなか興味深い。それは原作者モンゴメリがうつ病で自殺したことと関連があると書いてある。




町山智浩さんが「赤毛のアン」について触れている。

アンとトットについては、実はすでに記事にしていた。



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被災地で寒さをこらえて生きる人々、そして原発の被害を懸念する人々を放りだして、自分たちの裏金がこれだけ騒がれても罪の意識すらない国会議員は笑顔で仕事をしているようだ。皆さん人の命や血税を踏みにじって幸せそうだ。

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