テロルと映画 ① 四方田犬彦著
たまたま図書館で目にして手に取った。
読もうと思った理由はただひとつ。若松孝二監督だ。足立正生監督の傑作が安倍晋三の国葬に合わせて公開された日から、この若松孝二への傾向が続く。四方田犬彦先生を目の当たりにしてサインまでいただいたこともあって、ついつい意識してしまうというわけだ。
サブタイトルは「スペクタクルとしての暴力」。2015年に発刊されたこの本は、911テロを意識した内容ではあるものの、テロリズムが演劇的表現として恐るべき速度で世界に伝播され、衝撃体な映像に我々の目はアンカーリングされて、たとえそれがフェイク(嘘)であっても真実として記憶してしまうことを分析している。この傾向は、この本が出されたあと、さらに加速しているように感じる。
第1章 暴力のスペクタクル
自爆テロのことを日本以外で「カミカゼ」と呼ぶことを日本人は知らない。(自分も含めて)かつては日本もテロリストの国だった。そして「忠臣蔵」もテロを美化したものだ。これらを踏まえて著者は数あるテロルにまつわる映画を並べて論証してゆく。
第2章 他者の脅威 勧善懲悪を超えて
テロ映画のひとつとして「ダイ・ハード」(1988)を取り上げる。日本企業のビルでドイツ系のテロリストが人質の開放を求める話しだが、この映画は911テロ(2001)に大きく影響した可能性があると言われている。政治犯を標榜して実は金目当てだったという点に着目する。
第3章 テロリストの内面 自己顕示欲と実在
オリヴィエ・アサイアス監督の「カルロス」(2010)は5時間を超える大作で実在の人物を描いた映画のようだ。ここではテロリストが単なる目立ちたがりやで自己顕示欲の強い人物として描かれているという。テロリストの内面とは、実はこういうレベルであって、真の革命家であるかどうかはわからないという話しだ。
ここまでテロルと映画の関連について一般論を示したうえで、著者はここからテロについて扱う映画監督の作家性に切り込んでゆく。その一人目がルイス・ブニュエルだ。
第4章 ブニュエルの悲嘆 爆弾の偏在
ブニュエルの代表作の中から3本をチョイスして紹介する。テロリストに自由恋愛を提唱する金持ちを描く「ブルジョアジーの密かな愉しみ」(1972)。愉快犯として死刑になったテロリストが祝福される「自由への幻想」(1974)。個人の破局と社会の破局を対比させる「欲望のあいまいな対象」(1977)を並べ、ブニュエルの予言として「この世界はすでに人口の激増、テクノロジー、科学、情報によって破壊される。」という悲嘆を掲げ、それを四騎士(七つの大罪)と重ねた。
そしてブニュエルが実現できなかった次回作として「アゴニア」というエルサレムに水爆を落とす映画を撮ろうとしていたことを補足している。
つづく・・・
★
★