テロルと映画 ② 若松孝二の怒り

テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書 2325)
テロルと映画 - スペクタクルとしての暴力 (中公新書 2325)
中央公論新社


自分がこの本を手にして読もうと思った大きな理由はここからだ、国家もテロリストも否定した若松孝二の成り立ちと思想とその影響などについて丁寧に書かれている。


第5章 若松孝二の怒り 少年の孤独


ヤクザだったころ逮捕されて懲役しているときの屈辱から、若松孝二は警察と権力を憎悪しつづけてきた。


横道にそれるが、

かねてからヤクザは大嫌いで、存在すらも否定する立場だった自分の考えを少し冷静になって改めることになったきっかけをこの記事に書いている。

貧困の受け入れ先 - dalichoko


赤軍-PFLP・世界戦争宣言」(1971)や「天使の恍惚」(1972)など、足立正生監督と組んだテロリストを扱った作品の中で「性賊 セックスジャック」(1970)について四方田犬彦先生は解説を加える。テロが置き忘れたピストルを届けた少年をテロリストがリンチにしてしまうという展開。この映画で「他人に裏切られるよりも速いスピードで自分を裏切らなければ人殺しなどできない。」というセリフがある。テロがことごとく失敗する原因にひとつである内ゲバの内実を端的に示すセリフだ。


若松孝二監督は「事件が起きている原因に目を向けなければ、また戦争の悲劇を繰り返すことになるだろう。」と言われているとおり、若松、足立路線は今もこのことを現代に示していると強く感じる。若松監督の仲間である大島渚監督もまた同じ路線にあるのではないか。若松監督は「生命をかけて国家を拒否し、本気で暴力革命を目指そうとした」人物だったと言える。


第6章 ファスビンダーの嘲笑 管理社会における不毛な演技


政治に対してダイレクトに衝突する表現と、客観的にとらえる表現に加え、ファスビンダーのように国家と国民の仲介役であるはずのメディアを強く批判する考え方もある。ファスビンダーは「権力はメディアを介してテロを不毛な茶番劇に仕立ててしまう。」と言っている。若松監督の「事件が起きている原因」を置き去りにして、メディアがテロを演出してしまうという現実を映画に置き換えているようだ。


著者は「秋のドイツ」(1977)と「第三世代」(1979)という作品を読み解いて、人々がメディアに翻弄されて、自分の意思を他社(国家)に委ねてしまう恐怖について紹介する。ファスビンダーは映画の中で、”正義と悪”あるいは”敵と味方”の対立軸が曖昧になって、誰もが虚構の世界に埋没してしまう現実を示している。


37歳という若き天才が残した作品の中からテロの存在を第三者(メディア)を介して考えている。



つづく・・・


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