生まれておいで 生きておいで② 「わたしは”生(せい)”だった」
あまりに楽しいエルメスの展示をあとにして、銀座界隈を散歩したあと、上野の国立博物館に向かう。ここは横尾忠則さんの「寒山百得」で訪れたエリアだが、この広いエリアすべてを一日で鑑賞するのは不可能だ。
少し時間があったので、隣の東洋館を見て回る。
これがまた凄まじい数の仏像が並んでいて圧倒される。
このあと目的の内藤礼さんの展示を見に行くのだが、敷地の真正面にある平成館の3箇所に点在している作品を順に見ていく構成だ。これにはおそらく意味があって、古い建物の空間を意識させることと、そこにあるほかの作品群の間を通って行き来することで、内藤礼さんの作品の狙いを示そうとしているのだと思う。
平成館企画展示室にある横長のスペースにある作品はエルメスの展示に近い。ただ、暗い空間なので光を意識しながら作品を見る(というか探す)ことになる。
そしてメインの本館特別5室にある巨大なスペースを目の当たりにする。ここには外から入り込む光をそのままに、広く天井の高いスペースをあちこち練り歩くことになる。ここでゆったりした時間を過ごしたあと、最後は建物の裏手にあるラウンジへ。
ここもまた外からこぼれる光の中央に「母型」という作品が”置いてある”。それを人々は腰をかがめて見つめる。そこには外の光と混ざり合う不思議な世界がある。しかし何より「世界に秘密を送り返す」という作品の驚きは言葉にできない。内藤礼さんの一連の作品にある「鏡」を使ったマジック。そこには確かに作品がある。しかしじっと壁を見つめないとその作品にたどり着くことができない。そして作品を見つけると誰もが笑顔でその作品を覗き込む。そのあまりにも小さな鏡。
誰だろう
この地上に生きた いのちと 母というはざま
そして ここには 生の内と外にゆきわたる 何かがあった
みなが はなつ 声 みちて
そうおもうほど わたしは生だった
内藤礼
強く「死」を意識させる展示だと思う。内藤礼さんのこのメッセージにある「何か」とは「死」を意味するだろう。人がこの世に生まれて、外界と接する恐怖は「死」そのものだ。それでも母親から解き放たれた「生」は存在し続ける、「死」に向かって。なんという包容力だろうか。この過敏なまでの包容力に見るものは存在を失うほどの「無」を受け入れざるを得なくなる。そんな気がする。
自分は母に恵まれなかったと思う。いまもって母の存在がない。こんな自分がまともな「死」を迎えることなどないだろう。そう自覚させる展示でもあった。
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