#ダリチョコ の映画とグルメ

しょーもないブログです。I am stupid anytime.

「負け」の時代 #森達也 監督「私的映画論」より

東京国際映画祭開催中に、屋外スクリーンでアメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」を見る機会があった。フェイ・ダナウェイってきれいだなぁとあらためて思った。「チャイナタウン」が特になつかしい。
この流れで「福田村事件」の森達也監督がニューズ・ウィークに寄稿したこの記事が目にとまる。

「サークル・ゲーム」がフェイドアウトし、館内が明るくなって隣に座っていたクラスメイトが立ち上がっても、僕は腰を上げることができなかった。決して誇張ではなく腰が抜けていた。

腰が抜けるほどの映画ってすごい。自分は「いちご白書」を映画館で見たことはないけれど、テレビで見た「いちご白書」の教えは今も身体(頭)のどこかに残っていて、学校や権力には反発するものだ、という心理だ。特に権力に屈してはいけないという思いは今もこの身体のどこかに流れているような気がする。ささやかだが。

ジョニ・ミッチェルが作った「サークル・ゲーム」を歌ったパフィー・セント・マリーはネイティブ・インディアンだ。スコセッシの「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」や、「ドライビング・バニー」もそうだが、迫害された民族のことなどをにじませることで、「サークル・ゲーム」と「いちご白書」(実話)のことが浮き立ってくる。

1960年代後半から70年代半ばにかけてアメリカで製作されたアメリカン・ニューシネマだ。ベトナム戦争や公民権運動、ヒッピームーブメントやカウンターカルチャーなど社会や政治の大きな変動が反映された映画の潮流。反体制で無軌道な主人公が権力や体制に反逆するが、最後は必ず負ける。つまりアンハッピーエンドが定型だ。

森達也監督が書かれているとおり、この時代は反抗とか反発がアメリカの魅力ではあるが、いずれも負けて終わる、というものだった。アメリカン・ニューシネマをひとことで示している。このあと時代は1980年代、世界を新自由主義が覆うと「負け」は「勝ち」に変わり、「ロッキー」のようなサクセス・ストーリーが主流になる。そのしわ寄せがいま40年の時間を超えて「分断」をもたらしているようだ。

上映が終わったときは日が暮れていた。家に向かう道を一人で歩きながら、僕は何度も、映画ってすごいとつぶやいていた。まさしく僕にとってターニングポイントになる一日だった。

森達也監督がつぶやいた「映画つてすごい」を自分もつぶやいたことがある。それは「地獄の黙示録」だった。「映画ってすごい」。当時この映画のことをまるで理解していなかったが、日比谷の有楽座をひとり出てきたとき、「この映画って本当にすごい」と思った。その凄さは、この映画が何度も編集しなおされて上映されても、新鮮さを失わない。戦争を描く映画でありながら、宗教や哲学を示し、いまも世界のどこかで起きている愚かな戦争を代弁する。そして重要なのは、この映画も「負け」を描く映画なのだ。


成功体験も素晴らしいのだが、「負け」を受け入れることもまた重要だ。その意味でいま住んでいるこの国は国家もメディアも教育現場も反省がない。アメリカを必ずしも支持する者ではないが、すくなくとも映画などの世界で容赦なく国家や権力に食い入る姿勢は見習うべき部分があるように思える。


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