デモクラシーの宿命② 教育と学問が向かうところ 猪木武徳著

前の記事に書き漏れたが、かつて報道は日刊、週刊、月刊とそれぞれの役割をもってバランスを保っていたという。今は報道の即効性だけがもてはやされて、じっくり議論する習慣が失われ、スキャンダル優勢、アカデミック劣勢傾向にある。もっともだと思う。ここからはアカデミックな分野の問題点を整理している。


第2部 教育と学問が向かうところ
第4章 人文知の役割

「教育の失敗、理想と教養はなく”技術”だけを習得した結果だ。

清沢洌 「暗黒日記

ここでいう人文知に関しては、清沢の言葉に尽きる。著者はさらにディケンズの「ハード・タイムス」を紹介し、子供に事実しか伝えなかった結果、娘は愛を知らぬ女性となり、息子はギャンブラーから銀行強盗になってしまった。「三十四丁目の奇蹟」そのものだ。

山田太一さんの「合理主義だけでは善く生きられない」の引用も面白い

唯一合理的でない結びつきが家族。相手の全部を知っていたら結婚などできない。プラスもマイナスも引き受けるのが人間の面白さ。それがなかったら味気ない。

日本はいつからご都合主義の合理主義者がはびこる国になったのか。近年は知性ではなく理性に重きを置く傾向が強まり、それが社会にゆがみを生じさせている。理想よりも競争を重んじる教育現場、そしてそうした環境を強いる国家に大きな問題がある。しかも古典教育をしないから、過去の過ちから学ぶ習慣もない。西欧では「古典」を重視するが、日本は「老人の知恵(言い伝え)」が優先する。読まないで人の話を信じてしまう傾向。


第5章 大学の理念とシステム
日本の歴史上最悪の政権となった第二次安倍晋三政権だが、ここでも学術研究が否定された。福沢諭吉の言う「実学」は権威や権力から独立したものだ。権威に寄り添う学問は「虚学」となる。

健全な懐疑心と独立の気概を失うと「虚学」になる。

学問は「権威」を誇示すると「虚学」になる。

近年の日本人は「権威」だけを強調し、「実学」の精神を喪失していないか。国家が学問に権威というお墨付きを与えることで、自由な発想が消えてゆく。そして大学と産業が一定の距離を保たないと、研究が単なる産業の手段となってしまう。

技術は人を苛烈な労働から開放すると同時に、人間を技術の中に埋没させる。

われわれはチャップリンの「モダン・タイムス」の予言の通り、すでにコンピューターの奴隷だ。第二次安倍晋三政権でこの国は多くの”美しさ”を失った。あの人物が標榜した”美しい国”はとっくに消えてしまった。「短期の目的合理性」を目指した結果、日本は資本の奴隷性が強まった。


第6章 「大学改革」をめぐって


日本の大学の財政基盤が脆弱であることが大学の自主性を狭めている。英米の大学はもともと資産があって副収入も多いので、少なくとも国家の介入は少ない。学問は施設だけでなく「時間」も資本だ。前章で「短期的」目的のための学問に舵を切ったこの国は、学問に時間も与えまいとしているようだ。トクヴィルも「時間を与えることが理想の大学だ」と唱えている。

多数決でもなく独裁でもなく、優れた学者の多くは「例外者」である。そして「例外者」を守ることが学問の将来に重要である。

時間こそが価値なのである。もうこの国から基礎研究で世界的な権威を出すことはないだろう。学問の世界もデフレの波で覆われてしまったらしい。


つづく・・・




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