光島貴之 渋谷公園通りギャラリー

アール・ブリュットを展開する渋谷公園通りギャラリーで展示された、光島貴之さんの作品とともに過ごす。全盲のアーチスト光島貴之さんの息遣いを感じながら。

まずは空間に展開される光島さんの作品に、ここへ訪れた大勢の方がシールなどを貼り付けて書き足してゆく作品を眺める。入り口で係の方にいろいろな説明を受ける。何を貼っても構わない。ほかのシールの上から貼ってもOKだそうだ。

それでもよく見ると、さすがにどなたも他の方の上になにかを貼る、という方は皆無で、与えられた隙間に自分の思いを込める。これがデフレジャパンだ。かつて傲慢にバブルを謳歌した社会だったら、この上から大胆になにかを塗りたくる者もあったことだろう。いまの日本にそうした力もない。

ひとつひとつ見ていくと、なかなかユニークなものもある。光島貴之さんが基礎を描いた釘などは、立体感を演出するものでとてもおもしろい。そうか釘か。釘という存在を意識したことはなかった、釘がまるで線路にも見えるし、パチンコ台の釘をも連想させる。不思議な立体感。

足元にあるものは、踏みつけてもいいらしい。足の裏でなにかを感じさせる。ここにきて思う。作りての光島貴之さんは光を失っている。壁画の立体感や足元の肌感覚は、目に見える我々と光島さんでは違うものだ。見えない方たちの肌に伝わる感覚は色を失い、おそらく我々が目にしているものと全く違うものとして脳に伝わっているのだ。

全く違うものを目の前にして存在する我々は、ここで何を共通項として存在し続けるべきなのか?全盲のアーチストの作品は、我々を「見る」という概念から「触る」という感触への変化を誘う。

自分はホシの形のシールをカットして壁に貼り付けた。

この日着ていたTシャツは、ヤン・ヨンヒ監督の『スープとイデオロギー』。

ダーリンさまは足元のあたりにつつましい作品を残す。
おっと!ここで思い出したのは、同じ渋谷で展開されたパビリオン・トウキョウ。草間彌生さんの「オブリタレーション・ルーム」。真っ白い空間に、来訪者が次々と丸いシールを貼ってゆく。するとそこには草間彌生作品が出来上がるというインスタレーション。

ということはここも光島貴之さんの世界を肌で感じながら、ともに彼の作品を作り上げてゆくというコンセプトなのだ。これはアートの形としてはとても重要なところだ。そこにある作品を「見る」という概念を捨てて、「触る」とか「(肌で)感じる」という感覚。視覚から触覚。そして同じ目標に向かって作り上げる。構築。これはすごいことだ。
思えば瀬戸内海の豊島で体験した、内藤礼さんの「母型」もまた同じコンセプトかもしれないね。
(=^・^=)



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