#堤康次郎 ② 軽井沢と箱根

- 堤康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業 (中公新書)
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第2章 軽井沢・箱根の開発と箱根土地会社
堤康次郎と西武の業績でもっとも初期の成功は、軽井沢の発見だと言われる。ここを避暑地として鉄道などのアクセスを構築したことがその後の拡大の起爆剤となったようだ。第一次世界大戦(1914−1918)で混乱したあと、日本も都市への人口集中が目覚ましく、休養が道楽ではなく必要なものとされつつある時代、成金の避暑地を庶民に手が届くようにしたのだという。
(箱根土地株式会社 国立町開発当時の写真展)
第3章 箱根土地会社、東京進出
ここに1923年の関東大震災が重なり、復興事業に便乗するため康次郎は東京への進出を目指す。もともと早稲田時代に馴染みのある落合周辺の土地を所有していたこともあり、高田農相銀行(高田馬場)と強く連携して、分譲地を開発する。後藤新平が東京市長に就任する祝いの席で「郊外に学園都市を構想」することを発表し、大泉周辺の学園都市を分譲住宅として販売する。このあとの人口増に向け、分譲地はかなり売れたようだ。
第4章 箱根土地の開発と経営
急激な成長は負債をも増加させて、箱根土地に資金を提供していた銀行がいくつか連鎖して破産するという事態も招いている。この伝統はセゾンが解体に至るまでずっと続いてきた傾向で、この企業体は過小資本と過大借金による拡大路線を続けて失敗した例といえるのではないか。ときは1930年代、盧溝橋事件が起きて中国大陸から不穏な空気が漂ってくるなか、康次郎は箱根と軽井沢で他社との競争に明け暮れる。
第5章 武蔵野鉄道の支配と経営
1903年、山手線から分岐した西武鉄道の前身である武蔵野鉄道はずさんな経営体質だったようだ。秩父にあるセメントの輸送などで業をなしてきた武蔵野鉄道は借入金の増加により、1926年急激に経営を悪化させる。もともと対立関係にあった西武鉄道と競合も激しかったようだが、恐慌などで建設費が高騰し統合の道を選ぶことになる。
つづく・・・
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