#ダリチョコ の映画とグルメ

しょーもないブログです。I am stupid anytime.

ウ・ヨンウ弁護士は天才肌



基本的に連続ドラマは見ない。しかしどうも韓流となると良くも悪くも吸い寄せられてついつい見てしまう。きりがないので見たい欲求を自ら封印しているが、たまたま見てしまうともうそのドラマの虜になってしまう。『愛の不時着』や『イカゲーム』がそうだったように、こんかいもたまたま見てしまったらどツボにはまってしまった。(『イカゲーム』で重要な役を演じたオ・ヨンスさんはゴールデン・グローブ賞を受賞。)



自閉症スペクトラムの新米弁護士、という設定からしてすごいのだが、主人公のウ・ヨンウ(上から読んでも下から読んでもウ・ヨンウ)がドラマの中でさかんにクジラやイルカの生態について説明を始める。そしてどうも主人公のウ・ヨンウには母親がいない。このドラマの大きなポイントは母親だ。



もちろん適度な恋愛ドラマを組み入れてドキドキさせるシーンもあるのだが、ドラマの基礎が極めて大きな社会問題をえぐろうとしているので、しょうもないエピソードも含めて、主人公の社会的弱者を応援したくなる。そしてドラマを面白くさせるのは、社会的弱者である主人公を妬む人物なども交錯して、自閉症の主人公が守られるだけではない現実をも示そうとしている。


弁護士の仕事を描くのは、その仕事が矛盾に満ちたものだからだろう。依頼人の利益を守る。しかし時としてそれが社会正義に反する場合がある。受験勉強で疲弊した子供を連れて山へ遊びに行く青年を弁護するエピソードで負けるエピソードは、子供を勉強漬けから救う正義が誘拐という犯罪として扱われる。かたや、特許を巡る訴訟では、依頼人がしたたかで相手方の小さい企業を潰すことが目的だったりする。矛盾だらけだ。正直で天才肌のウ・ヨンウは常にその現実に揺れ動きながら、天才的なひらめきで窮地を救うのだが、それが必ずしも正義かどうかはわからない。


マイケル・サンデルのメッセージなどがドラマに重なる気もする。正義とは何か?一連のエピソードの中で、正義と現実を対比させるドラマもある。


しかし何より、このドラマは母親の物語なのだ。クジラやイルカのエピソードを何度も何度も飽きるほど延々と話すウ・ヨンウを煙たいと思う同僚。しかし、動物の生態における母親の役割は種の保存。子供が虐げられようとする子供を身を挺して守ろうとする。その犠牲お本能と、人間社会に失われた母性を比べるドラマが最後に待ち受ける。


ウ・ヨンウの生みの親は、実は次期法務閣僚を目指す大物弁護士だった、という展開がドラマをさらに面白くする。そしてこの母親テ・スミは、自分の子供だったウ・ヨンウが天才弁護士だと知って、自分の事務所にスカウトしようとする。こうしたエピソードが次々と折り重なり、最後の最後でウ・ヨンウは直接テ・スミと対峙する局面に至る。(最終回「風変わりだけど」)


韓国も日本と同じ男系主義で、男性が社会を支配する。そして先輩後輩の序列を重んじる階級社会。常に着きまというレイシズムの中で、このドラマの自閉症の主人公は様々な障害の翻弄される。しかも彼女には母親が存在しない。これ、実は韓国に限らず、この数世紀世界にまとわりつく現実だ。少なからずディズニーの映画もその片鱗は隠されている。ディズニー映画で時として強烈な存在感を示す毒母。エマ・ストーンが演じた『クリエラ』もまた母親に捨てられた人物だったことが明かされる。



こうなるともう親に捨てられた子供がまともに生きていることは奇跡以外の何ものでもない。この人間の現実と、クジラの生態を対比させることでこのドラマは極めて高い次元で見る側に大きな社会問題を提起している。もはや人類に自らを守る本能は失われ、クジラのような愛情は失せている。自分もまた然りだ。


このウ・ヨンウを演じたパク・ウンビンも奇跡だ。子役時代から活躍する彼女だが、製作サイドは彼女にこの役を演じてもらうために1年待ったとか。それほどまでに難しい役だったと思う。一歩間違えば茶番になってしまう難しい演技。彼女の表情はまさに自閉症を思わせるそれで、動作や目線などよく研究しつくしている。このような難しい役を誰もが簡単に演じることはできまい。第2シーズンが予定されているという噂もあるが、この役を彼女が演じ続けるリスクはないのだろうかと心配する。それほど難しい演技だと思う。


そして最後に、ウ・ヨンウの実の母親として登場するテ・スミ役のチン・ギョン。この美しい母親の存在は、ウ・ヨンウを捨てた母親という悪役に相当するわけだが、その演技の見事さに圧倒される。わずかな表情の動きだけでドラマの流れを変える演技。最後にウ・ヨンウに説得されるシーンには胸が熱くなる。大物弁護士で、これから閣僚になるための聴聞会に向かおうとするテ・スミの後ろでウ・ヨンウがある言葉を放つ。その言葉に彼女は硬直し表情を微妙に変化させる。自分の築き上げたキャリアと名誉。そして自ら捨ててきた母性。この2つがテ・スミにのしかかる。


先ごろ何度か赴いたことのある豊島美術館に行き、内藤礼さんの「母型」を体感(鑑賞というよりは体感)してきた。そこには母親の胎内にいるような静かな空気があった。動物である以上、必ず自ら母親の胎内にいたことがあるはずだ。そしてそこで何かしらの会話があったはずだ。しかし、人間の現実は必ずしも母型に優しくない。子供を宿し産んでも、その子供が必ずしも幸せである確証はない。宿してから生まれるまでに環境も変わる。そんな現実をこのドラマは強く印象づけるものだった。


話題は変わるが、アメリカの中絶法案が大きく変遷しているらしい。



望まれない子供を宿しても、生まれたきた子供を支援する社会制度はない。レイプされて妊娠しても、堕胎することは許されない。そんな社会の現実と、ウ・ヨンウが背負うビハインド、そして母親のテ・スミの心境などを同時に考えるとますます胸が痛くなる。しかしこうした社会問題をいち早く取り上げドラマ化する韓流の真髄を堪能する。日本ではとても真似ができない。韓流ドラマ、韓流映画が世界の先端を走る理由もまた垣間見る。




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