ゴミ屋敷の子どもたち 「ブロック太郎」
映画を見続けると、何か目に見えない特別なものが見えてくるときがある。去年4月にこのブログに書いたのが「武器」というテーマ。映画のカメラは武器になるが使い方を間違えると大変なことになる、というようなネタ。
さて、先日立て続けに「化け猫あんずちゃん」と「クレオの夏休み」という映画を見たときに気づいたこと。それは、双方の主人公(かりんとクレオ)に父親はいるが母親がいない。そして遠い親戚(知り合い)の家に預けられるという境遇があまりにもマッチしているので驚いた。これは単なる偶然なのだろうか?
「化け猫あんずちゃん」で主人公の少女かりんが、東京のアパートに帰るとドアに無数の貼り紙がされている。「金返せ!」家に入るとそこはゴミ屋敷。ゴミ屋敷というと、「語りの複数性」という渋谷公園通りギャラリーで偶然見た展覧会が重なる。
語りの複数性 Ways of telling - dalichoko
映画の話題に戻すと、映画作品の中でゴミ屋敷がやたらと描かれていることに気づいた。「あんのこと」「市子」「ゴールド・ボーイ」、去年の作品になるが「遠いところ」や「渇水」・・・
これらのゴミ屋敷映画(?)に共通するのは子どもだ。未成年の孤独な子ども。この線上には、前述した「クレオの夏休み」だけでなく「ブルー きみは大丈夫」「悪は存在しない」「葬送のカーネーション」「コット、はじまりの夏」「落下の解剖学」「人間の境界」など、社会と家族から置き去りにされた子どもたちがずらりと並ぶ。なぜこれほどまでに虐げられたような子どもたちが存在するのか。
ゴミ屋敷と置き去りにされた子どもたちを強引に結びつけることに無理があるのは承知だが、ゴミ屋敷のような社会にあって、最も悲惨と思えるのは(自分のことは棚上げにして)ひとつは核家族化と都市化によるバランスの崩壊だろう。仕事のために都市に住むことを余儀なくされた会社員は借金返済のためだけに会社に(奴隷のように)へばりつく。子どもが生まれても、社会や地域は誰も世話をしてくれない。そしてありあまるモノ。不要なモノが安価で需要され、使いもせずに放置されてゆく。
それに1980年代の新自由主義経済がカウンターとなって、全てが民営化されてゆくことで何もかもが「余白」を失った。全ては市場の競争にさらされ、敗者や弱者は疎外されてゆく。疎外という孤独。逃げ場を失った子どもたちはいつしか孤立し、誰かを信じたり愛したりする機能を失い、デフレ経済がこの環境にダメ押しをした。
しかし実は、これらのことは日本だけのことではなく、世界に蔓延する家族間のディスコミュニケーションが子どもたちへの目の見えない抑圧となってしまったことが感じられる。もはや我々は世界のどこにも逃げる道がない。世界でいちばん幸せな国「ブータン 山の教室」にも同じことが描かれる。
そんな中、「ロッタちゃん はじめてのおつかい」で信じられない光景を見る。ゴミ回収の塵芥車のおじさんから、となり近所のおばさんまでの誰もがロッタちゃんのことを知っている。ロッタちゃんがゴミ箱に置き忘れたぬいぐるみのバムセを、塵芥車のおじさんが隠し持っていてくれた。こうしたありきたりのことに強い感動を覚える。いや待てよ、日本もかつては地域が子どもを育てているときがあったのではないか?
大国のモノマネと支配下にあって極東の凡庸で世界一貧しい国に住む我々にとって、わがままでイジワルなロッタちゃんを優しく見守る余裕などどこにもない。いまもどこかで、置き去りにされた子どもがゴミ屋敷の中で表情もなく暮らしていることを思うと胸が痛い。
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他人の話しを全く聞かない大臣「ブロック太郎」が、BBCのインタビューに大嘘を並べているという記事が紹介されている。