クレオの夏休み マリー・アマシュケリ監督
「クレオの夏休み」
映画の中で可愛らしいアニメ表現が何度か出てくるが、オープニングもそれ。そしてクレオが視力測定をしているシーンから始まる。この映画は、人物の表情にカメラが極端に寄り、毛穴まで映すようなシーンが続く。ここでなんとなくこの映画の行き先を察する。弱視のクレオが描く想像(アニメ)のファンタジー。
ところが、
クレオや彼女のナニー(乳母)であるグロリアの表情などを追うにつれて、まるで違うことが示されてくる。母親のようにグロリアを慕うクレオだが、グロリアが突然祖国ガーボベルテ(この国の名前すら知らなかった)に帰国してしまう。
父親と二人暮らしのクレオは次第にストレスが溜まって、グロリアに会いたいと苛立ってくる。仕方なく父親は、次のナニーが決まるまで、クレオをグロリアが住むガーボベルテに送ることにする。グロリアと再会したクレオだが・・・
今年偶然にも見た映画でいうと「葬送のカーネーション」や「コット、はじまりの夏」あるいは「ブルー きみは大丈夫」や「ホールドオーバーズ」、さらに先ごろみた「化け猫あんずちゃん」などへと意味深くシンクロする映画だ。これらの映画に出てくる子どもや若者は、何かこの社会にあって欠落しているものがある。
しかしそれだけではない。
この映画はマリー・アマシュケリ監督がインタビューに応じているとおり、もっと重大なメッセージが隠されている。アマシュケリ監督自身の経験に基づく映画ということもあって、全編リアルで美しい映画だが、その影にもうひとつ極めて大きなことが隠されている。
映画を最後まで見ると、その感動に打ち震える。涙が止まらない。だが、映画を見終えて冷静になると、それだけではない”何か”に多くの方が気づくはずだ。
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