#MUCA(ムカ)展② 公共の破壊
もともと芸術に価値などない。金(マネー)に換算することで、アートとしての価値は経済性へと歪んでゆく。しかしパトロンがいないと彼らは存在できず、新たな作品を作ることもできない。
・「MUCA展」(森アーツセンターギャラリー)開幕レポート。アートの入り口としての「アーバン・アート」に出会う|美術手帖
・「世界中の何百という街の、あらゆる道から増えていく、ストリート・レベルの相互作用を追い求めているのです」。インタビュー:JR|美術手帖
Faces Places - Official Trailer
アニエス・ヴァルダがゴダールに会いに行くまでの道すがらでイベントを繰り広げるフランスのアーチストJRの作品には、どこか辛辣なものがある。ほほえみの中にあるトゲ。この老人の巨大な写真も、じっくり見つめると穴が空いている。
年輪に刻まれた老人の顔に空いた穴こそは、この作品の言わんとすること。生きることを疎外する社会。老いては死に進むことを求められる社会。「PLAN75」を思わせる。
ここからはバンクシーの作品が並ぶ。3年ほど前に行った寺田倉庫などの展示も刺激的だった。
ディズマランドとは?バンクシーが作った「悪夢のテーマパーク」を徹底解説 | thisismedia
彼はむしろ、意図的にアートの経済的価値を逆説的にとらえていると思う。逆手に取るとでも言おうか。人の心を豊かにするはずのアートで人々を苦痛に導き、それに莫大な価値をもたらそうとする過激派だ。
ある意味で自分も同じディレクションを向いている。このブログでも何度か紹介している大島渚や若松孝二、として足立正生へとつながる系譜こそ、映画という芸術でこの社会を破壊しようという強い意思であって、それを不愉快に思う感情こそ、われわれの人間らしさだと思っている。
この像の額を撃ち抜かれた弾痕は、まさにこの社会そのものではないか。なまぬるいこの社会を誰も止めようとしない。いよいよ社会の劣化は究極に行き着き、分断と破壊を繰り返す。これらの型破り(アンコンベンショナル)な作品の数々に、しばしこころを奪われる。壁に描かれた絵画や、過去にどこかで見たことのある像など、これらの公共性を存分に破壊する意思がそれぞれのアーチストから伝わってくる。
公共の破壊
とは、まさに革命。大きな変革と推進こそが市民に求められることだと思う。そしてこれらの価値なき作品群が、われわれを逆説的に刺激するのである。
★








