#ダリチョコ の映画とグルメ

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#52ヘルツのクジラたち #町田そのこ 著 「#複合危機」

52ヘルツのクジラたち (中公文庫 ま 55-1)
52ヘルツのクジラたち (中公文庫 ま 55-1)
中央公論新社


特設ページを見ると、来年映画化されることが決まった作品のようだ。本屋大賞第1位。


冒頭の書き出しが面白い。

明日の天気を訊くように「風俗やってたの?」と言われた。

主人公のキコという女性が、どこからか流れてきて住むこの場所で起きた最初のでき事がこれだ。途中で何度か示される「魂の番(つがい)」という言葉が示すとおり、このドラマは主人公の女性の誰からも愛されない壮絶な人生と、彼女がこの場所で織りなす誰かとの交流。タイトルの”52ヘルツのクジラ”も意味深い。


言葉を喋らない髪の長い子供がキコを助けてくれる。そしてキコが過去に世話になったアンさんという人物。鬼母からキコを開放するために助けてくれたアンさんとの関係がキコの人生に大きく意味を持つ。このあたりの表現は実にうまい。


ドラマはかなりシビアにトランスジェンダーやDVなどを想像させる作りとなっていて、キコの過去で声なき声を発しても誰にも届かないその声が”52ヘルツのクジラ”と重なる構成になっている。


このドラマにはもうひとつ印象的な表現が示される。それは「血」だ。親から与えられた抗うことのできない「血」。ケチャップのような「血」。誰かが死んだときの「血」など、いたるとことに印象的な赤い血が流れてゆく。


季節の表現も見事。キコと友人の見晴が交わす夏の風景。

見晴は「夏だねえ」と笑う。同じく目を腫らした私も「そうだねえ」と笑って頷いた。

目に見えるような美しい情景があちこちに散りばめられていて、ある意味で映画的表現が随所に示されているように感じる。


子供を置き去りにしたり見殺しにしたりして、いつまでたっても自立することのできない親のことを、とある老婆がこうささやく。

ひとというのは最初こそ貰う側やんけど、いずれは与える側にならないかん、いつまでも貰ってばかりじゃいかんのよ。

ある種の現代批判。俗物的に何でも欲しがり手に入れたがる飽食の時代を痛烈に批判するメッセージにも受け取れる。


複雑にからみあう人間関係は、いかにも女性作家が描いた心象風景だと思う。とてもわかりやすい表現で満ちていて、その内容も明快だ。映画化でがっかりさせられないことを祈りたい。こういうドラマを映画にするとがっかりさせられるパターンが多いので、商業的な誰にでも理解される映画などにしてほしくない。世の中の弱者、特に力で存在をねじ伏せられるような虐げられた立場にいる人物にフォーカスして、大胆な映画にしてほしい。




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政治思想の大きな変化に誘導するより、まずは政権交代しやすい環境が構築されることが先だと思ってきたが、もう手遅れのようだ。ここは斎藤幸平氏の言うように、思い切ってソーシャリズムからコミュニズムへ誘導されることがあってもいいのかもしれない。そしてそれはまた長い時間をかけて揺り戻されるかもしれない。「コミュニズム=独裁」という愚かなイメージを払拭する必要もあるのではないか?なぜなら新自由主義はもっと大きな独裁(冨の集中)を作り出したではないか。

斎藤:その結果、20世紀的なリベラル左派の思想が前提としていたような楽観主義はもはや通用しません。環境問題、パンデミック、戦争、インフレといった複合危機の時代に、社会をだんだんと良くしていけばいいという思想は通用しないのです。


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