サン・セバスチャンへよこそ ウディ・アレン監督 「群馬の森」

ティモシー・シャラメの「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」以来、ウディ・アレン監督の新作「サン・セバスチャンへようこそ」を鑑賞。2020年コロナ禍で作られた2022年公開の映画を2年越しで見ることがかなった。




株主優待券をせっかくいただいたので、使わないともったいないなと思い、調べたらなんとウディ・アレンの映画を池袋でやっている。有楽町をあとにして池袋のルミネにあるシネ・リーブル池袋に向かう。



個人的に、この映画はウディ・アレンの最高傑作。驚きと笑いの連続。

驚きは、ウディ・アレンのキャリアと知性が凝縮されているという点。主人公のリフキンが夢を見ると、画面がモノクロになり見覚えのあるシーンが再現される。「市民ケーン」。あの部屋の中から雪の中を外で遊ぶケーン少年と「ローズバッド」。すごいパロディ。この映画とガチで対峙する気なら、この映画が再現する多くの映画(「忠臣蔵」や「影武者」を含む)を見てからこの映画を見た方がいい。そのためには30時間近い労力を要するが・・・


例えば「市民ケーン」が一代を築き転落する、というドラマを知らないと、この映画の中で使われている本当の意味がわかりにくい。要するにこの映画もウディ・アレンが自分のことを描いた作品であり、メディアからたたかれて転落する自分とこの映画の主人公の空回りぶりを三重に重ね合わせていると受け取れる。ウディ・アレンがいかに映画を愛し、それらの映画から学び、時代に合わせてそれを示してきたかを示す映画なのである。


「アニー・ホール」にベルイマンの「野いちご」を彷彿とさせるシーンがあることは有名だが、「サン・セバスチャンへようこそ」の中では、「野いちご」をそのまま移植したようなシーンがある。自分の弟と自分がかつて好きになった女性がふたりで自分(リフキン)の噂をしているところを自分が見つめるというシーン。ウディ・アレンの多くの映画が、極めて主観的(私的)に見えて、実は客観的で社会性をもつものであるかが伝わるシーンだ。


残念ながらこの映画は、日本で大きな興行に乗ることなく、しかも評価もいまいちなのがとても残念だが、この映画を30時間以上の対策で、それを90分にまとめて抽象化した大作だと捉えると、少しは見方が変わるだろうか。





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とてもじゃないが群馬県に住む気にはなれない。こりゃデストピアではなかろうか。この事態を止められない国という意味で、すでに日本全体がデストピアになってしまったように感じるがどうだろうか。

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