#カサンドロ ロジャー・ロス・ウィリアムズ監督 「Paul Lynch」
町山智浩さんが絶賛していたプロレスの映画。
カサンドロ リング上のドラァグクイーン : 作品情報 - 映画.com
匿名性の裏返し
メキシコのプロレス「ルチャリブレ」のスター、カサンドラの物語。実在の人物でドキュメンタリーにもなっている。
プロレスはかつて東スポで必死に学んだ世代なのでいまでも興奮を覚える。スポーツでよく「筋書きのないドラマ」と言われるが、プロレスは「筋書きのあるドラマ」だ。勝者は毎回決まっているし、結果を求めるスポーツではない。イカサマなどと揶揄されるがそれは違う。プロレスは命がけで体を張ったドラマなのだ。
その意味でこの映画のカサンドロのサクセスストーリーはドラマとして極めて優れていると言える。メキシコのプロレスは誰もが鮮やかな覆面をして登場する。大スターエル・サントにあこがれてプロレスの世界に入った主人公は、ある日自らの名前をカサンドロと変えて大躍進して、憧れのエル・サントと対決する。ここがクライマックス。
しかしカサンドロには深い心の重みがある。ゲイとして15歳でカミングアウトしてから父親は家を出て、母親と二人暮らし。パートナーにも妻と子がいるなど八方塞がりで冴えない生活が続く。カサンドロが自らの顔のメイクをして覆面をせずにリングへ上がることで、何もかもが開放される。彼(彼女)を支える女性トレーナーもまた素晴らしいサポートをする。
このところ見た「赤と青のロイヤルブルー」や「ニモーナ」にも共通するテーマ、もっとウィングを広げて抑圧した社会を示すなら「あしたの少女」や「エリザベート」なども性別の差を超えて同じテーマではなかろうか。ついこの間連続して見た「熊は、いない」や「ピギー」だって同じ文脈にあるだろう。
カサンドロが覆面をせずに、自らゲイであることを隠さずリングに上がることの意味は極めて深い。かつて子供の頃見た「タイガーマスク」の匿名性と、SNSが社会を支配するかのようになった現代では、匿名性の持つ意味が違う。孤児院で育った伊達直人がプロレスラーになって慰問する意味。佐山聡がタイガーマスクになった時代も、タイガーマスク現象というのがおきて、貧しい子供たちにランドセルが匿名で贈られるなどの時代があった。しかし今はその匿名性が他人を傷つけ疎外させる道具として使われる時代となってしまった。
いつも同じことを思う。
これは遠い国の遠い時代を映す話しではない。他人事ではないということだ。
冷笑系や関西で人気の政党などが、弱者を踏みつけにして疎外する行為は、匿名性の裏返しだろう。カサンドロが抑圧から開放されるとして、それを逆手にとって弾圧するさらに強い力はいったいどこから来るのか?よく考えるべきだと思う。
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輝かしい発展を遂げるアイルランドだが、それに警鐘を鳴らすポール・リンチのような作家がいるようだ。ブッカー賞を受賞したことで俄然注目されている。翻訳されたらぜひ読んでみたい。
