Out of parents 「社会に満ちる怪異」
桐野夏生さんの「日没」という小説の中に「母とカレーライス」という物語が語られる場面がある。作家の矯正施設で書かされる作文は、暴力を振るう父と離婚した母親が作るカレーライスの話しだが、その母親も死んでしまう。ここで主人公の少女と弟は孤児となり、血の繋がらない親戚に振り回されるという展開になる。両親がいない。
「母とカレーライス」を読んでふと思ったのだが、この少し前に、米澤穂信さんの「リカーシブル」という小説を読んだのだが、主人公の少女(中学1年生)もまた両親がいない。彼女を育てるのは父親の後妻で、優しい人なのだが自分を叱らない母親に冷たさを感じるという設定だ。
あれれ?と思ったら、「君トン(君たちはまだ長いトンネルの中)」という映画の主人公(女子高生)は、教師や議員を次々に論破し、日本の経済政策を批判する。この少女も父親を亡くして親戚に預けられているという話しだ。(母親はここに存在しない。)両親がいない主人公の映画については短く記事にしたことがある。
はて、
これらを自分に置き換えると、他人事のようだがピタリと当てはまる。自ら親に勘当され、自らの家族も捨て去ってきた。では、前述の小説や映画の「両親不在」はどこから生まれるのか?と考えると、理由のひとつが「高齢化」だと思う。
財産のない親から生まれた子供が老いると、自分に財産がないため、親の面倒も家族を養うこともできない。親は老いても生きている、子供にはよりいっそう金がかかる。この板挟み状態を誰も助けてくれない。仕方がないから身を削るような爪に火を灯す生活に耐えるしかない。
こういう社会に未来はあるのだろうか。
こういう劣悪な状況を声にして、世の中や政治を批判すると叩かれる。思っていても言葉にできない社会。桐野夏生さんの「日没」という小説の主人公が最後にふらふらと「ああそうか」とつぶやいて崖っぷちに歩いてゆくラストに自分を重ねる。「さっさと死ねよ」と社会に詰められているような気がするがどうだろう。
ネットの悪意について、桐野は「もともとネットは、匿名の卑怯者の巣窟だと思っているから、SNSも見るだけでほとんどやらない。ネットには背を向けている」という。
このしょうもなブログもまた同じだ。かといってありていの内容では誰も読まない。だからときに過激でいいかげんなことを書いて注目されたいと思う。キャンセルカルチャーにも近い「シック・オブ・マイセルフ」の世界。目立ちたいけど名前は出したくない。
「論議なしに、いきなりこれはダメ、あれもダメと規制をかけていくと、ほどなく何かとすり替えられる危険性が絶対にある。だから、コンプラ、コンプラと言っていると、今に足をすくわれるから警戒が必要だ、という気持ちでいます」
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