少年 大島渚監督
「少年」
何度も同じようなことを書いてきたような気もするが、映画というものの不思議な連続性を感じる。これに疑いを持たないと、何か思想的なものにリードされてしまいそうだが・・・
過去にもこのブログなどで、大島渚監督作品などについて書いてきたが、ここにきてまたふつふつとオオシマイズムが沸き上がってくる。特に昨年、国立映画アーカイブで大々的に展示された大島渚監督作品の思い出の品がとてつもなく強烈な印象を残した。
そしてその中に、この「少年」という映画に使われたあるものが飾られていて衝撃だった。
この映画は、ずっと林光さんの音楽が、半ば見る側を不愉快にさせるような音を突きつける。その音が、この家族(まるで「万引き家族」のような偽装家族)が各地を転々とする情景に重なる。
さらに、吉岡康弘さんと仙元誠三さんの恐るべきカメラ。あの美しい映像、強烈なカラーはいったい、当時の技術をしてどのように生み出されたのか。
ここに文字を重ねても何も伝わらないので、実際の映画を見て感じていただくしかないのだが、個人的にこの映画を示すとしたら「少女」というキーワードではないかと思っている。
映画の終盤で、家族が北海道でアクシデントに見舞われるシーンで映像が突然モノクロに反転する。それまでの鮮やかなカラーを排して、唐突にモノクロとなり、車の中から目を開いたまま死んだ少女がこちらをみつめる。そして彼女が雪に倒れたとき、額から赤い血が流れてくる・・・
このシーンの衝撃に生唾を飲みこむ。当り屋の家族が最後に衝突したこの少女はいった何か?そう考えたとき、この国が犯してきた罪深い歴史と、そのことを反省もせず、利益だけをむさぼる政治家と大企業の存在など、ありとあらゆるものが映像の外に連鎖してきた。
この上映に至るまで、たまたま大島渚監督の戦友とも言える若松孝二監督を扱う映画を数本見たことで、この少年という映画の基礎となる思いがぼんやりと伝わってくる。
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